財産、住居、1人の選択

ご主人をガンで亡くした58歳の女性(Aさん)に相談を受けた事例です。ご夫妻には子どもがいませんでした。Aさんは夫の生命保険などの遺産を受け取って、老後を1人で過ごすことになりました。あるキッカケで私はAさんの財産管理と、今後の住居について、相談を受けました。

まずAさんに直接お会いして、今の財産の状況や今後の将来の希望についてご質問しました。住居の質問をすると生活に便利な「都会に住みたい」「何歳になってもできる限り1人で住みたい」という要望がありました。そこで、私はマンション販売に詳しい〝シニアサポートデスク〟のサポーターをご紹介しました。初顔合わせの際は、私も立ち合いました。その後、Aさんが希望していた駅から徒歩5分以内にある都心部のマンションに入居が決まりました。女性一人での大きな買い物は大変不安です。入居にあたって契約の内容、お金の支払い方など、不安に思うことをひとつひとつ納得されながら、満足のいく物件を選ばれました。

マンション購入後、Aさんの総資産は現金では7000万円残りました。1人にしてはとても莫大な金額です。サポーターのファイナンシャルプランナーの協力を得て、将来設計に合わせた金融商品を紹介しました。そして金融各社の見積りを取って契約をし、財産の振り分けをしました。

今でもときどき、資産の使途、運用などについてご質問のお電話をいただきます。生活に対して不安がなくなられたようで、ご友人と海外旅行に出かけたり、習い事をはじめられるなど悠々自適の生活をお過ごしです。

今回ご相談いただいたあるキッカケというのは、本誌「LifeLike」をご覧になったからだそうです。その後、ホームページから[株式会社ユメコム]の会社案内を取寄せていただいて、当社の事業について調べていただきました。これまでの実績等を参考にされ、安心できるパートナーと感じていただいたようです。

「誰にも迷惑をかけずに一人で生きていく」そう心に決めた

華やかだった現役時代 今でも凛とした雰囲気が漂う

〝役員秘書室 主任〟とはシズ子さんの華やかな現役時代を象徴するシズ子さん自慢の役職名です。シズ子さんは昭和一ケタ生まれ、誰もが知る上場企業の役員秘書を定年まで勤め上げました。女性が社会にでて働くことすら珍しいその時代に、最後まで力強く人生を生き抜いた女性。80歳を超えた今でも凛とした雰囲気を持ち合わせているのはさすがです。しかし、シズ子さんは、この数ヶ月で認知症が進行し、今のこと、そして昔の記憶も少しずつ失いかけています。仕事の記憶は、幸いにも生き生きと楽しく働いていた自分の姿のみが思い出として残っているようです。

シズ子さんは、結婚、出産を経験していません。シズ子さん流にいうと、「結婚は面白そうじゃなかった」らしいのです。また「誰かに面倒みてもらおうなんて恥ずかしい生き方だわ」とはっきり言い切るところもシズ子さんらしい気持ちです。現役の頃から会社に行くにも遊びに行くにも便利な商業地近くのマンションを住まいにし、ずっと優雅な独り暮らし。

そして、今から8年前76歳の時、「私は今後とも誰にも面倒はかけたくない」と言い切って、長年住み慣れたマンションと決別してケア付きの高級有料老人ホームに移り住みました。姉妹に相談することもなく決めてしまい、妹さんが初めてそれを知ったのは、有料老人ホームと入居契約を行っている時に「保証人になってほしいのでサインして」という電話だったといいます。

万全のケアが付いた老人ホームでも 判断できない問題が・・・

シズ子さんが入居した老人ホームは、24時間365日のケアサービスがついています。この数ヶ月で急速に進んだ認知症にも、多くのケアスタッフがかかわり、声をかけ、目を配り、十分対応できています。一見日々の生活には何の支障もないように見えます。しかし、ホームで対処できないことが徐々にでてきました。郵便局の「定期貯金の満期金受取」、証券会社の「購入株券のことについて」、「生命保険の満期金受取」、マンションの「火災保険の継続契約」、「マンション管理費の値上げについての同意」など、施設では判断も代行もできない、特に財産に係わる事柄が顕著に増えてきたのです。

シズ子さんのことで施設が介入したり、判断したりできないことは、同ホームから妹さんに連絡があります。しかし妹さんはお金に関することも、やむを得ず手続きを進めていますが、「本当に私が決めていいのかしら」という不安が常に心に重くのしかかります。また決めてあげたくても「本人の同意」「法定後見人」等、法的なルールによって、たとえ妹さんであっても支援してあげられないことは少なくありません。その結果、現在、妹さんのご主人を候補者として法定後見人の申立てを行い後見手続きを準備中です。

「誰にも迷惑かけず独りで生きていく」ことは、難しいことです。「誰の世話にもならない」と言っていたシズ子さんも結局、法律の下では誰かのお世話にならざるを得なかったのです。

認知症の母、介護の問題

数年前に父親が他界、89歳で1人暮らしの母親が認知症になった息子Bさんの事例です。結婚後、両親と同居せずに暮らしていたBさん。父親の他界後、1人になった母親を心配し、自分たちが住む家から徒歩10分ほどのところに借家を借りました。年をとっても達者な母親。しかし引っ越した3年後から、異変が見られるようになったそうです。はじめは、「物がなくなった」「家の前で人が騒いでいる」と母親から電話がかかる程度だったそうですが、母親が住む近所の方から、夜中に大声で騒いでいると苦情を受けるようになり、ようやく認知症だと気がつかれたそうです。

そこからBさん夫婦とBさんの弟夫婦の母親との戦いがはじまりました。Bさんと弟が交代で母親の家に泊まり、日中はそれぞれの妻が介護、昼食の用意は介護保険で訪問介護のヘルパーに手伝ってもらいましたが、24時間体制で母親から目を離せない日々、介護疲れで次第に家族間がぎくしゃくするようになったそうです。
24時間介護をはじめて1年がたった頃、本誌「LifeLike」をご覧になったBさんからようやくご相談を受けました。その時の疲労困憊のBさんのお顔が忘れられません。あきらかに介護疲れでした。認知症の介護を家族だけで乗り越えるのは非常に難しいことです。Bさんの状態を見て、私は非常事態と感じました。そこで、有料老人ホームの入居をすすめました。Bさんの了承を得て急いで、ホームの情報に詳しいサポーターをご紹介しました。そしてすぐに、有料老人ホームの宿泊体験が決まりました。認知症の方も受け入れていただける施設だったのですが、夜中に大声で騒ぎ続けたため、受け入れを断られてしまいました。Bさんはとても落胆されていましたが、次にすぐ別の施設を紹介しました。その施設には認知症対応棟があり、認知症の利用者に対してとても詳しくそして対応に慣れておられました。宿泊体験もうまくいき、ようやく入居が決まりました。Bさんの自宅からも近く、いつでもかけつけられるというのも安心要素だったようです。

入居から1年半がたった頃、Bさんから母親が施設で亡くなられたというご報告がありました。家族や施設のスタッフに見守られ、とてもやすらかな最期だったそうです。

家族愛が決断をさせ前向きにさせる

社会的責任を負う、 一流企業の役員。プライベートよりも仕事の方が忙しいAさんに降りかかった介護は「自分しかいない」という状況があったという。
「そういう家庭も多いかもしれませんが、母は兄よりも弟の私のほうが可愛かったみたいで、兄嫁より私の妻への確執の方が強かった。だから認知症になってからは、私の妻への攻撃が強く、妻が胃潰瘍になってしまったのです。だから妻には母を頼めない。」
厳しい義母のもとで、二人の息子を必死に育てたAさんの母が攻撃的な認知症と診断されたのは7~8年前。最初は、父が面倒を看ていたが5年前に他界。横浜の兄ではなく、関西に住むAさんが介護をすることに。
「大阪へ転勤したばかりで、関西本部を任される立場でしたから、当然定時で帰れるわけがない。昼はヘルパーさんに頼み、仕事を終えて帰ったら母との時間。時には、私の妻が入れ歯を盗ったなんて、あるはずのない攻撃的なことを言う母を説得しては寝かし、また起こされの繰り返し。疲労が蓄積していました。」
どうしても起きられず、気付いたら母が徘徊していたこともあったと話すAさんに、衝撃的な出来事が起こる。
「母との二人暮らしが2年を過ぎようとした頃、私もひどく疲れていた日に、母の攻撃的な発言を説得することができず、何回言っても寝てくれない母に対してついに手を挙げてしまったんです。ガクっとヒザから落ちた母は、寂しそうな顔と後ろ姿で2階へ。私は、その晩一睡もできませんでした。」
これをきっかけに、母を施設に入れることを考えた。
「施設のことを調べてみると、私に正しい知識がなかったことに気づかされました。母にとっても施設の方が幸せかもしれません。少子高齢化の中、育児には手厚くなってきましたが介護への施策はまだまだ遅れている日本。正しい情報が少ないことを実感しました。」
実は、母を施設に入れた後、軽いくも膜下出血で倒れるほど疲れていたAさんだったが今は母と会う週末も楽しい時間となっている

突然始まった母の介護で学んだこと

就職後10年を過ぎ、本社の花形的部署に居れば、誰もが重要なポジションにつきたいと願うはず。Bさんの場合は、海外の駐在員を希望し仕事に対して意欲を燃やしていた。がしかし、兄から突然電話がかかる。
「義理の姉が病気になったと連絡が入りました。実は、私の母は狭心症と難病指定の感染症に長年かかっていて、一人にしておくことができないんです。兄と義姉がずっと一緒にいてくれていたので、私自身が母の介護をするということは将来においても考えていませんでした。ですが義姉が倒れ、兄に「週末は妻の面倒をみたい」と言われました。それで、私が母を看ることに。」
Bさんは、当時住んでいた東京から金曜日に京都へ来ては日曜日に帰る週末を約7カ月間していた。つまりは、休みのない生活。東京にいる平日でさえ、いつ京都から電話がかかるかわからないと、自ら飲みにいくことがなくなり、今までの楽しみだったゴルフも行かなくなり、仕事と介護の時間だけだったという。
「本当は、父が看るのが筋なんでしょうけど、父と母は家庭内別居状態で、母自身が父に介護されることを拒んだんです。私たちも、母の身体に悪いことはしたくない。そんなこともあって、京都への転勤ということを考えだしました。」働き盛りの30歳代、本当に苦渋の選択だったのでは?「転勤希望の締め切り1時間前まで悩みました。本当はアジアの国名を書くところが京都ですから。不謹慎かもしれませんが、悩み過ぎて思わず鉛筆を転がしたくらいです。でも信頼できる方々に相談したら、皆さん「最後は家族」と言われたことが、後押しになりました。」
その後、京都への転勤が決まり心身ともに重い荷が降りたように楽になった。義姉も体調が良くなり、今はいろいろありつつも平穏な日々を過ごしている。「身を粉にして働き育ててくれた母に感謝しています。僕の選択は、間違っていませんでした。」今は母と一緒に介護施設を見学に行けるまでになった。今後共あらゆる情報を得て健全な介護を心がけ、生きがいを感じる仕事との両立をはかる。

父の相続をめぐる兄妹間の争い

脳梗塞で倒れた父親の面倒をみはじめた娘(妹)Cさんの相談です。もともと父親と同居していなかったCさん。父親が倒れ、兄夫婦に面倒をみてほしいと頼んだが断られ、Cさんがみることになりました。そこで父親の財産を管理している兄夫婦に、看病に必要なお金をお願いするも断られたということで私のところへ相談に来られました。
はじめCさんのお話を伺ったとき、「どうして兄ともめているのか」が気になりました。そこで、お話を聞くうちに兄の嫁がCさんに対して相性が合わないのだということがわかりました。このような場合、誰が誰ともめているのかを明確にすることが大切です。そして結局、自分たちだけでは解決が難しいと判断し、Cさんに弁護士を紹介しました。
生まれて初めての弁護士との面談に大変緊張されていたので、私がCさんの相談内容をまとめてサポーターである弁護士にお伝えしました。弁護士は「将来のこと、相続のことなど総合的に考えて、今の時点で感情的にもめることは得策でない」と法廷で争うことを回避されました。その内容にCさんも納得され、しばらく時がたちました。
そして3年後父親が亡くなり、案の定、相続で兄妹がもめることとなったのです。兄夫婦が父親から預かったお金を使ってしまっていたのです。ついに裁判にもつれこむことになりました。3年前に面談した弁護士を法定代理人として依頼しました。争続は今も続いていますが、亡父の思いを叶えるため、また娘の気持ちが納得できるまで、サポーターが全力でアドバイスにあたっています

こんなに長く入院するとは思っていなかった

みんなで話し合って決めた有料老人ホーム

一人暮らしをしていた認知症の母親、正子さん(仮名86歳)の今後について、3人の息子さんが話し合い有料老人ホームへの入居を決めました。有料老人ホームとの契約に際して、長男の真一さん(仮名62歳)が身元引受人となり金銭面の責任を担い、同ホームとの連絡窓口は三男の護さん(仮名55歳)が担当することになりました。
ところが、施設に入居して数ヶ月経った頃から、度々肺炎を起こすようになり、長期間の入院が必要となりました。ホーム側は、入院に際して「部屋はそのままにしておかれますか?それとも、退去手続きをされますか?」と確認が入るようになりました。入院中も同ホームの部屋をそのまま置いておくためには、維持費(部屋代、管理費など、各有料老人ホームによって費用負担や部屋をキープできる期間が異なりますので、確認が必要です。)がかかります。
重要事項説明書にはその旨の記載があり、契約時にも説明を受けていたのですが、息子さんたちにとっては、想定外の出来事でした。「今後も何度か入院することもあるだろうから、このままではお金が続かない。そうならないために、今のホームよりも安いところへ転居させよう」と提案する真一さんと、「このホームにいると、お母さんはとても落ち着いている。だからここで過ごさせてあげよう。お金が足りなくなったら、お母さん本人の資産を処分すればいいことだ」と主張する護さんの間で意見が分かれました。

母親が落ち着いて過ごせる

そのことが第一条件だと思う 母親が一人暮らしをしていた頃毎週お母さんの様子を見に来ていた護さんは、「認知症が進んできたので、母親が落ち着いて過ごせるホームを第一条件に探していました。そして、月々の費用や有料サービスなども考慮して大丈夫だと判断した上でこのホームに決めたのです。でも、こんなに入院することになるとは想像もつきませんでした。あと何年この状況が続くのかと心配する兄の言い分も理解できないわけではありません。事前にあらゆる状況を想定した上で、必要となる金額をきっちりと計算しておくべきであったし、二人の兄と母親の財産分与についても話し合っておけば、こんな兄弟間の争いも起きなかったと思います」と話されていました。
その結果、母親の金銭的負担と施設や病院の対処方法を巡って真一さんと護さんの兄弟仲は険悪になり、やがて家庭裁判所で争うことになってしまったのです。

遺言書とわだかまり

…その日の朝は、まだ暗いうちから目が覚めました。まさしく“虫のしらせ”でした。
「○○病院です。お父さんの容態が突然悪化しました。すぐ来ていただけますか。」
朝の冷たくはりつめた空気のなかで、原付バイクのエンジン音を響かせながら、病院までの道を急いだのです。父は、私の到着を待って、安心したかのように永い眠りにつきました…。 振り返れば父が介護状態になったこと、遺言書が記されていたこと、そして今までの様々な場面での言動など、いろいろなことが原因で、すでにもう1年たったひとりの妹と、会うことはおろか、言葉すら交わしていません。父が遺言書を信託していた銀行も、遺言執行人としての立場を断ってきました。これからどうしていったらいいのか…。

それは突然に始まった

5年前になるが永子さん(仮名)のお父様は、67歳の時、突然脳梗塞で倒れました。一時は昏睡状態となり誰もが最期の時を覚悟したのですが、何とか一命はとりとめることができました。しかし自分で歩くことや自らの意志を伝える「言葉を発する」ことができなくなってしまったのです。あまりにも突然なことに永子さんはお父様が倒れてから数日の間、お父様の変わり果てた姿を正視することができず、病院に行くことすらできなかったといいます。そして、ここから永子さんの生活が変わり、お父様中心の介護生活が始まりました。
倒れてから3ヶ月は病院に入院していましたが、その後、退院を促され、施設や在宅での介護生活を迫られました。施設を探すことにしましたが、なかなか見つからず、結局1年間は、永子さんの家で介護することとなったのです。お父様は、倒れた時より状態は回復しつつあるものの、ベッドにほとんど寝たきりで、食事、排泄、入浴など生活のすべてを介助しなければなりません。それを永子さんがひとりで負担したのですからどれだけの苦労だったかわかりません。実は、倒れてから3ヵ月後の退院時に、妹さんは「お父さんの面倒を看ることはできない。体も続かないし、面倒をみる気にはなれない。」と言い放ったらしく、永子さんが介護の一切をすべてひとりで抱えることになったのです。妹さんは数年前に離婚しており、お2人の子どもと共に、実家に戻り、1人暮らしをされていたお父様と一緒に生活をしていました。元気だったお父様に、子ども達の面倒はもちろん、経済的にも支えてもらっていたといいます。それなのに、元気だったお父様が一転、介護状態になったとたん「面倒は看れない」といった妹に、相当に心から怒りを感じたと永子さんはいいます。その心のわだかまりは、結局あとになっても消えることはなく、今から思えば、お父様が倒れた時から、妹とは絶縁状態になり、“相続”ならぬ“争続”がはじまっていたのです。

遺言書とわだかまりが残った

お父様は、脳梗塞で倒れる2年前に公正証書遺言を残していました。このことを知ったのは、信託銀行のお父様名義の通帳から年に1回引き落とされている「遺言書預り手数料」の項目を見つけたことがきっかけでした。既にお父様が寝たきりになっていたので、なぜ、遺言書を残したのかは定かではありません。まさか、自分の介護がきっかけで、仲のよかった姉妹の間に亀裂が入ることを予想していたわけではないでしょうが、遺言書を残しておけば、相続争いが起きることなく進めてもらえると思ったのでしょう。しかし、お父様の思いとは裏腹に現実は進行していったのです。
お父様の遺言書によると、実家の不動産は、姉妹で半分ずつに、そして現金はほとんどが姉である永子さんに譲ると記されていました。ただ、相続にかかる一切の費用、また実家である不動産の保険や名義の変更等これからかかる諸々の費用についてもすべて永子さんに託されていました。これは、妹さんだけに経済的支援をし続けたことに対する永子さんへの謝罪の気持ちと配慮が十分に感じられる内容でした。しかし、妹さんは、この内容に納得ができずに、今だ、遺言執行のための遺産分割協議書への捺印を拒んでいます。永子さんはこの妹の態度が許せません。「お父様が介護状態になった時に面倒をみられないと見捨てたくせに…」という思いが募り、許せない気持ちを助長させてもいました。
しかし、現実には、どんな形にしろ、姉妹の中で決着がつかなければ相続は執り行われません。不動産の名義も変えることはできない上に、預貯金、現金を動かすことすらできません。さらに、妹さんと直接話しすらできない状況ですから、どうすればいいか、相続手続きには期限があるにもかかわらずきっかけさえ作れていないのです。

年をとっても自分の人生は自分で決めたい

息子がお金を無心に来る

私達が、大山美子さん(当時74歳)に出会ったのは、あるケアマネジャーからの紹介であった。昔ながらの長屋で独り暮らしをし、ほぼ毎日ヘルパーによる食事、居室の掃除などの介護サービスの支援を受けて生活をしていた。ヘルパーが来ない日は通所介護施設(デイサービス)に通い、介護保険を利用して、穏やかに普通の暮らしをしているように見えた。
しかし、心の中には大きな不安を抱えていた。それは、離れて暮らしているひとり息子がたびたびお金を無心しにくることである。不安で夜も眠れないという。
介護保険制度では提供できるサービス項目が決められている。要介護者の願いをすべて叶えられるわけではない。高齢者の生活相談を事業のひとつとしている私達に「通帳と印鑑を預ってほしい。」と依頼があった。専門家のバックアップのもと、委任契約を締結し、大山さんと私達の長い付き合いが始まった。

笑顔で昔話をしてくれた

大山さんには、脳梗塞で倒れ、老人保健施設に入所しているご主人と、別居のひとり息子がいた。ご主人の定雄さんは、脳梗塞発症後、両足が麻痺し、車いす生活を余儀なくされていた。会話も読み書きも問題ないが、すでに要介護2の美子さんが、自宅で面倒を見ることは不可能であった。息子とは、昔に仲違いし、二人とも口を揃えて「勘当した」という。確かに、私達もこの夫婦と出会ってから今日まで、息子とは一度も出会っていないし、話もしていない。一度だけ電話で話しをしたというケアマネジャーの話によると、息子の方も親だとは思っていない。面倒を見る気もないと凄い剣幕で捲し立てられたとのことであった。
そんな息子がお金を無心しにくるという美子さんの話は、本当なのか定かではない。しかし、通帳と印鑑を預り、月に1回の現物確認を欠かすことなく支援を続けることで心が和らぎ、不安が徐々に安心にかわっていったのだろうか、笑顔で昔話をしてくれるようになった。

喜寿の誕生日の日に

ある日、慌てた様子のケアマネジャーから「ヘルパーが訪問したら、床の上で動けなくなっていた美子さんを見つけ、病院へ救急搬送しました。夜中にトイレに行こうとして転倒したようです。」との電話があった。幸い命に別状はなく、意識も回復したが、太腿骨を骨折し、定雄さんと共に車いす生活になってしまった。いつかは二人で自分達の家で暮らしたいという願いも空しく、長年過ごした長屋を引き払い、特別養護老人ホームへ入所したのは、美子さんが喜寿を迎えた77歳の誕生日であった。

人の世話をする運命なんや

その後、定雄さんが美子さんと同じ特別養護老人ホームに入所できるようケアマネジャーに懸命に働きかけ、二人にささやかな光明を与えたのは、美子さんの5人兄弟の末弟、明さんであった。明さんは、姉である美子さんの15歳年下で、若い頃から親と同居し、認知症になった父の介護、さらには義母の介護に自分の生活のほとんどを費やした。明さんは夫婦での時間なんてほとんどなかったと振り返る。その明さんが、両親を看取り、自分の子供たちを一人前にさせ、長年務めた繊維販売の会社をめでたく定年退職した矢先、姉夫婦の境遇に向き合う事になったのである。「人の世話をする宿命なんや。これも何かの因果か…」と話す明さんに私たちは返す言葉も見つからなかった。

私たちが死んだら

週に1回は、姉夫婦の元に通い、「元気か。飯は食ってるか。なんかほしいもんあるか。」「大丈夫や。ごめんな。ありがとう。」が挨拶代わりの会話で始まる明さんとの面会。私はその場面に遭遇するたび、温かさと寂しさが交互に吹き抜けるのを感じていた。
そんなある日、いつものように通帳を差し出した私に向かって大山夫妻が二人揃って話しかけてきた。
「私達のお金は足りていますか?」
「十分足りてますよ。」
二人の年金は、定雄さんの厚生年金と美子さんの国民年金で、毎月23万円である。社会保険料、施設入所費などの一定の支払いは、十分年金で賄える。
いつもは残高なんて気にしないのに、その日は、老眼鏡の奥で目を細めながら見えにくそうにその数字を見ている。しばらくの沈黙のあと、定雄さんが口を開いた。
「このお金、私達が死んだら明さんにあげてほしい。」突然の申し出に、しばし無言でいると、今度は美子さんが「息子には一銭も渡さないでほしい。」と、通帳を見つめたまま訴える。二人の本心であることは、痛いほどよくわかった。 「最後まで、いや死んだ後もわしが面倒みたる。」と明さんは姉夫婦の気持ちを心から受け止めた。

人生は自分で決めていい

私達は今、二人が共に意識も判断能力もしっかりしているうちに、遺言書を作成する段取りに執りかかっている。また、税金の考慮もしながら年間の贈与可能枠内の金額で、大山夫妻から明さんへの生前贈与をおこなうことが決まり、そのための贈与契約(私製証書)の作成も準備している。
今後は向後の憂いなく、二人が長生きをして、今の自分達の願いを法律に則ってまっとうしてもらうのみである。これが大山夫妻が選んだ家族への真の思いなのである。

今の日本の法律では、遺産の一定割合の取得を相続人に保証する『遺留分』という制度があり、「息子には一銭も渡したくない」という二人の思いは残念ながら叶わないかもしれない。また、今の望みそのものが、例えば認知症によって消されてしまうかもしれない。最悪の場合、贈与等の手続きが間に合わぬまま、最期を迎えるかもしれない。
しかし、何歳になっても自らの人生は、もちろん財産の行方だって自分で決めていいはずだと、大山夫妻を見て、私たちは強く思う。そして、私達の仕事の重みを感じながら、意志決定の重要さを多くの高齢者に伝えていきたい

地域から受けた恩を、地域に返そうと民生児童委員になったKさん

「民生児童委員というと、名誉職のように思われている方もいるかもしれませんが、今は地域の方のために様々な活動に取り組んでいるんですよ。」
そう語るのは、宇治市A地区の民生児童委員会長として活動しているKさん(男性六十七歳)だ。民生児童委員とは、民生委員法及び児童福祉法に基づき厚生労働大臣から委嘱され、地域住民のために活動する民間の奉仕者である。Kさんは、A地区の父子・母子家庭や高齢者を見回ったり、虐待や不登校といった子供や地域の問題に取り組むなど幅広く活躍している。他にも高齢者を対象とした歌声喫茶のような「いきいき広場」で地域の繋がりや振興を目的としたり、「こっこランド」という0~3歳児の子育て支援を行うサロンで子供と遊んだり、親の相談受けや親同士のつながり構築のサポートを行っている。
しかしこの多岐にわたる活動とその企画・運営、そしてその責任。そう容易に民生児童委員になるとは言い出せないのではないだろうか。Kさんがやり始めたのはなぜなのだろう。
「実は母子家庭で育ったのですが、子どもの頃、当時の民生児童委員の方にお世話になったんです。民生児童委員さんの家は、そろばん塾とお煎餅を焼いておられました。小学生から中学生の頃、その方にそろばんを教えていただいたり、お煎餅をもらったりして、心強い親戚のおじさんのような存在でした。その時の恩返しをしたいという気持ちもあり、民生児童委員を引き受けることを決断したんです。」
五十六年前受けた地域からの恩を、今度は自分が地域に返そうとしているわけだ。やはりKさんにとって地域と自分が結びついている感覚は強いのだろうか。
「民生児童委員の活動は地域密着型ですから、地域を知らないとできませんし、活動するほどにそこに住む人たちの顔まではっきりとわかってきます。」地域福祉というのは常に相手の顔を見なければ状況が見えないということもあるだろう。Kさんは続ける。
「そうやって知り合いになった方をサポートしたり、人と人との橋渡しをしたり、色々自分が関わっていくわけですが、それがうまくいったときが喜びですね。やはり、自分が長い間暮らした地域の人が喜んでくれるのは大きなやりがいです。」
Kさんはこれ以外にも現役時代から趣味の延長で始めたボランティアや趣味サークルなど多くの活動に参加している。いったいその若者顔負けのバイタリティーはどこからくるのか。
「ひとつ何かを始めると、活動の幅はどんどん広がっていくものなんです。次から次へとやりたいことがでてきますよ。」 なかなか忙しいんですと言いつつ、笑顔で「充実しすぎ」の定年後を語るKさんであった。

定年後、まったく未知の活動に挑戦したMさん

唸りをあげチェーンソーが竹を切り倒していく。その度に木漏れ日が鬱蒼とした竹林に少しずつ差し込んでくる。大山崎町に住むMさん(67歳)は、定年後竹林ボランティアという自身にとってまったく未知の活動に挑戦した。定年後は億劫になりがちといわれるが、Mさんはなぜ新しい世界に飛び込んだのだろうか。
「ある事情で竹の生かし方を考えていたんですが、そんなとき大山崎町の広報で、大山崎竹林ボランティアが竹炭を焼く活動をしていることを知って、興味をもったので活動に行ってみたんです。それがきっかけ。最初は地域貢献したいといった意思は特になかったなあ。」
大山崎竹林ボランティアは主に大山崎天王山の竹林整備、つまり竹が良好に育つよう他の竹を切り、一坪に対し竹一本に間引くということを中心に活動を行っている。そして伐採された竹を使って垣根や竹ベンチをつくったり、竹炭を焼く等少しでも竹を無駄にしないよう配慮している。また、竹細工や竹プランターなどを製作し、年末などたまに行われるイベントで売ることもあるそうだ。 こうした活動を通し、Mさんの中で何がどう変わっていったのだろうか。「最初は竹を切ること以外に特別な思いはなかったんですが、活動を続けていると、ハイキングする人から山や山道がキレイになったと喜びの声を聞くようになりまして、それがやっぱり嬉しいわけですよ。やりがいを強く感じましたね。」
またメンバー同士の結びつきも、彼に活動を続ける情熱を与えた。「上は70過ぎの人から、下は55まで。みんなしんどい言いながらも楽しんでますよ。」たまに集まってお酒を飲んだり、何人かで旅行に行ったりなど親密な関係で、定年後の生活に大きな充実感を与えてくれるという。
こうしてモチベーションを保ったまま活動を続けるMさんだが、そんな彼に地域との関わりについて尋ねてみた。「活動の一環として、竹筒を使った流しそうめん大会やタケノコ掘りなど地域の人向けのイベントを行っています。若い人や子供たちが少しでも竹に興味を持ってくれたらと思っています。」
大山崎町に25年住んでいるMさん、やはり地域への思い入れは強いようで、「少しはお役に立っているのでしょうか。」と後からしみじみ感じるそうだ。ただ、「まだボランティアの参加者は少ないし、活動する回数も増やしたい。参加者は随時募集中です。」
是非あなたも新しい世界へ一歩踏み出してみてはいかがだろうか。

ボランティアで生きがいを

定年を迎えたDさんが生きがい探しのご相談に来られました。現役時代は仕事人間で、特に趣味がなかったというDさん。本誌「LifeLike」をご覧になって、ボランティアの記事に関心を持たれたそうです。
「私にもできるボランティアはありますか?」と最初は不安そうでしたが、ボランティア団体の記事を読まれ、窓口を紹介すると早速問い合わせされました。実は、当社のグループ会社で保険代理店の[株式会社エスアールエム]では、「ボランティア保険」という保険を取り扱っています。この保険は、年間300円でボランティア中のケガや賠償事故を補償します。京都にある多くのボランティア団体がこちらの保険に加入されています。その後、Dさんは相談に来られたかいあってあるボランティア団体に入られ、団体の中心的な役割をになって充実した毎日を楽しんでおられます。

家族で分かち合った介護の悩み

Aさんは現在、夫と小学生の子供3人、義父、義母、という家族構成での7人暮らし。義父母と同居を始めたきっかけは、3年前に義父が患った脳梗塞でした。右半身に麻痺が残り、高齢に差しかかった義母一人では介護しきれない状態だったのです。Aさんは長男の嫁であったため以前から覚悟していたこともあって、体力的にも精神的にも疲れていた義母を助けたいと思い、いよいよ同居することになりました。
とはいえAさんには「フラワーアレンジメント教室の講師」という、やりがいのある専門的な職業があり、平日の10時から17時まで仕事が入っています。仕事を続けたいという思いは強くありましたが、義父の重い症状を目の当たりにして、義母だけに任せておいてよいのかと悩みました。
やがて1人で悩んでいても仕方がないと思うようになり、仕事を続けたいという意向を義父母に相談しました。2人とも快く了承してくれましたが、義母の負担は以前と変わらない状況に陥り、これが新たな課題となって家族の前に浮かび上がってきたのです。平日に義母の介護を手伝う人がいなければ、同居前の状況と何ら変わらないのです。
そこで3人が頼ったのは、義父のケアプラン を作成していたケアマネージャー です。週3回だったデイサービス を、ほぼ毎日利用することはできないかと相談したところ、良い返事がもらえました。これで、平日昼間の介護に人手が足りないという問題や、義母に負担が掛かりすぎるという問題を一挙に解決できました。その上、土日や祝祭日に関しても、月1~2回の頻度でショートステイ の利用を提案してもらえたのです。ケアプランを変更してもらったお陰でずいぶん楽になった、とAさんは微笑みます。
家族の介護に関わりながら、自分の仕事を続ける。それを実現するためには、夫や同居している義父母に「仕事をしたい気持ち」を分かってもらうことが大切でした。それぞれにかかる負担をきちんと把握し、軽減できる方法がないかどうか、これからも家族で考え続けます……。

念願だった海外勤務に直面した時

仕事の転機、同時にそれが家族においても1つの転機になりました。自宅の近所に住む両親のほかに、同居の家族は妻と中高生の子ども2人だったBさん。ある時会社からマレーシア勤務を打診されます。3年間という長い期間でしたが、以前から行ってみたいと思っていたこともあり、Bさんにとって願ってもない話でした。しかしすぐに首を縦に振ることができない事情がありました。実は父親がその数ヶ月前に、認知症と診断されていたのです。その症状は想像していたよりも激しく、これまで他人事として見聞きしていた「認知症」や「介護」が、一気に現実となって迫ってきたといいます。家族に向かって大声を出したり、介助しようとすると暴れて強く拒否したりするのは日常的であり、攻撃性は増す一方でした。そんな父を抑えられるのは体力的にも自分だけでしたが、仕事の帰りが遅いため、平日の介護に関しては、母と妻に任せるほかありません。二人には感謝の気持ちでいっぱいでしたが、負担が掛かりすぎるのもいけません。そのため介護の大変さについて、なるべく3人で話し合うようにしてきました。
自分が仕事に専念できるのも、母や妻の連携とサポートのおかげ。心からそう思うからこそ、単身海外勤務ということが、ひどく自分勝手な道に思えてならなかったのです。まるで1人だけ楽をしたかのように思われないか心配でした。
『実は会社から海外勤務を命じられた。行きたいとは思うけれど、父さんのこともあるし迷っている』。そう打ち明けたBさんに返されたのは、妻の明るい一言でした。『良かったじゃない。行きたかったんでしょう? たった3年、こっちのことは大丈夫』。さらに妻は、介護施設 の申込を提案してくれました。なんと、認知症高齢者も手厚く介護してくれる施設を以前から近所で探していたのです。家族のことを思いやる妻の行動を知り、Bさんは心から安堵したといいます。
単身海外勤務を決意し、いよいよ出立が近付く頃、父のグループホーム への入所も済ませました。今は本人の症状も落ち着いてきて、近所で元気に暮らしているそうです。週に1回以上は母が会いに行き、月に1回は父が家まで帰ってきます。
『家族で食卓を囲むのはやはりいいですよね。それもこれも、父の介護に参加しながら、自分や母のことを客観的に見てくれた妻のおかげです』。仕事と家族、そのどちらも大切にするBさんは、今充実した日々を送ってい

介護サービスを上手に使い分けること

Cさんは未婚でひとり暮らし。広告代理店勤務という多忙な日々を送りながら、隣家に住む72歳の叔母の介護と向き合って生活しています。叔母の姉、つまりCさんの母親は2年前に他界しており、父親も遠い昔にガンで亡くなっています。叔母も自分も他に兄弟姉妹がなく、特に叔母には身寄りが全くありません。
そんな叔母に介護が必要になったのは1年前のこと。ベランダで転倒し、大腿骨を骨折してしまったのです。手術は無事に終わりましたが、骨粗しょう症の傾向が強く、自力での歩行が難しくなりました。リハビリの結果、段差のない所なら、手すりに掴まりながら歩けるようになりました。しかし、それでも自宅で独りきりの生活をするのは様々な困難との戦いでした。
例えばベッドからトイレへ行く時でも、起き上がってから、壁や手すりをつたい、トイレに座るまでの間に5分もの時間が必要となります。しかし叔母は、自分の気持ちや考えをしっかり持っており、どんなことがあっても家で暮らし続けたいと願っていました。
叔母の意思を尊重したいと考えたCさんは、介護の計画を立てました。まず日中はヘルパー に来てもらい、食事の用意や掃除などの生活支援をしてもらいます。また、週2回程度入院していた病院が経営する老人保健施設 のデイケア にも通ってもらうことにしました。問題は夜間でしたが、民間の家政士サービス に週4回来てもらうことで解決しました。サービスを利用しない日は前もって決めておいて、仕事の段取りをつけることにしたのです。
『もし私一人で毎日付き添っていたら、心身共に持たなかったと思う。叔母との関係もぎくしゃくしていたかも』。Cさんはしみじみとそう語ってくれました。叔母自身も、家族ではなくまったく他人である介護サービスのプロに来てもらった方が、どうやら気楽そうだとか。『ただ、お金がかかるので毎日利用するわけにはいかないし、それが今後の課題になるでしょうね』。仕事と介護、そして叔母の気持ちのそれぞれを大切にするCさんの事例です。

住み慣れた地域から離れたくないAさん

Aさんとその夫との間には子どもがいません。奥様であるAさんは足が悪く歩行困難なため、ご主人が手足となって暮らしていました。買い物や用事もご主人がやっていたのですが、ある日突然自転車で転倒し、脳内出血で寝たきりになってしまいます。そのまま特別養護老人ホームへ入所。1人になったAさんも、胃を悪くして入院してしまいました。子どもはいないし、ご主人も意思表示が困難な状態。「自分1人で今後どうやって暮らしていこう」そう悩んだAさんは、地域包括支援センターへ相談に行ったり、専門家を紹介してもらったりしました。しかし、満足のいく答えが得られなかったようです。
その後、偶然私のところへ相談に来られたため、Aさんの状況や気持ちをよく聞いて、一つ一つ解決していくことにしました。「子どもがいないため家もいらないし、自分たちの死後はお墓もいらない」。その希望を聞いてまずしたことは永代供養です。家の処分などについての遺言書を書いてもらい、任意後見の手続きもしました。全てが終わった後Aさんは大変安心されて、「これでいつどうなっても大丈夫」と晴れやかな表情をしていました。
しかし、まだ解決していない問題が1つあります。資金の心配もない方だったし、ずっと入院しているのはもったいないので、有料老人ホームに入ってはどうですか? と聞いたんです。しかし、Aさんは自分の住む地域が気に入っていて、遠くの施設に入るのは嫌だというのです。
地域内、あるいはその近くにある有料老人ホームも紹介しましたが、そこも気に入らないと言われてしまいました。結局Aさんは体調が安定した今も入院しています。
地域で住み続けたいという願い。それは分かるのですが、いつまでもこういう形で生活が続けられるわけではないし、居場所が病院にしか見つからない、というのもいかがなものかと……

有料老人ホームで孤独を感じてしまったBさん

脳梗塞で倒れて入院したBさんという方がいらっしゃいます。半身が麻痺して車椅子の生活になり、その後も入退院を繰り返し、しばらくは老健施設に入所していました。
80代後半のため、老健施設から次の老健施設へは行けません。だから私は、最期までいられる施設がいいんじゃないかな、と思い、何十という物件を探して、結局は有料老人ホームに入ってもらいました。老健施設は4人部屋でしたが、今度は個室。さぞや快適だろうと思いました。
でもBさんは、部屋に入ったとたん泣き出してしまったんです。「私は捨てられた」と言って。最初はその意味が分からず、立地が寂しいところのせいかな、と思ったんですが、よくよく聞いてみれば、孤立した空間に一人でいるのが寂しい、ということだったらしいです。老健や病院には多くの人が出入りしていて、にぎやかだった。ところが、個室に入ってしまうと、食事以外の長い時間を一人きりで過ごさなければならない。それに対する寂しさ、不安、孤独。それがすごく出てきたようなんです。元の施設に戻して欲しいという訴えもされました。
老健施設に入ってもまた移らないといけないし、この先ずっとその繰り返しになってしまう、という話をしましたが、なかなか理解してもらえませんでした。
寂しさや孤独を少しでも解消してあげられたら良いのかな、と思い、今はその点に力を注いでいます。例えば、本人の精神安定のために定期的なアロママッサージを施したり、片手でもできる塗り絵、編み物、パズルなどを届けたりしています。今現在、Bさんの不安を解消できるよう、ケアマネージャーや「たよりになる輪」のメンバーと一緒に、一生懸命考えているところです。

自分の人生を他人に託す勇気

妻を亡くして14年 70歳を迎えての決断
「立つ鳥跡を濁さず」。
半年前、シニアサポートデスクを、今後の人生のパートナーとすることを決めた石川さん(仮称)の胸には、そんな想いがありました。石川さんには子どもがなく、妻を14年前に亡くしているため、死に至るまでの世話をしてくれる人が周りにいません。
「自分が死んだら、残された手続きや遺産はどうなるのだろう?」
誰にも迷惑をかけたくなかった石川さんは、ずっとそう悩んでいたといいます。後を託すべき子どもがいないのならば、親しい友人や妻の兄弟など、ほかの誰かに頼むべきだと思いましたが、いわば「他人」の自分のために、彼らを苦労させるのは偲びない思いでした。
石川さんが「誰にも迷惑をかけないこと」にこだわった背景には、14年前にガンで亡くなった妻の存在がありました。闘病中、妻はひと言も弱音を吐かず、臨終間際3回だけ、「しんどいねん」と優しく言ってから亡くなりました。最期まで潔かったその様子に心を打たれた石川さんは、「自分も妻に恥じない最期を迎えたい」と強く思ったのです。

シニアサポートデスクとの出会い
最期を託すべき身内がいなくても、その時は確実に近づいてきます。70歳を迎え、目をそらさずに現状と向き合おうと思った石川さんは、しかるべき機関に依頼しようと考えました。身の回りの整理をしたり、家を売って高齢者住宅に入居したりしながら、任意後見契約・死後事務処理委任契約などを請け負う会社や機関をまわり始めます。自分の足を使い、実際に担当者の話を聞いた上で見極めようと思ったのです。しかしそうはいっても、自分の人生を他人の手に委ねるというのは、なかなか決心がつかないもの。契約を結ばないうちに月日が経ち、気付けば2010年の暮れを迎えていました。そんな折に石川さんの目に留まったのが、友人の手から渡ってきた、本誌『LifeLike』内のおせち料理の広告。友人が見せてくれた、その一人用のおせち弁当を頼んだ石川さんは、発行元のユメコムに興味を抱きます。場所だけ見に行こう。そんな気軽な思いでユメコム本社を訪ね、シニアサポートデスクの事務所へ足を踏み入れました。入って話を聞いてみると、明るく和やかな雰囲気や、ほかの機関では感じられなかった、「スタッフの人間味」に驚いたといいます。そのことが決め手になり、石川さんはシニアサポートデスクに、自分の人生やその後のことを、丸ごと託すことにしたのです。

抵抗感と不安からすがすがしさへ
石川さんとシニアサポートデスクの間で、いよいよ契約手続きがスタートしました。書類を制作し、手続きを踏んで契約を結ぶためには、あらゆる個人情報が必要となります。固定資産税などの情報を全て伝えなければならないことに対して、抵抗感もあったといいます。手続きを依頼する側とされる側の間に行き交う情報量のアンバランスに、危うさを覚えたこともありました。しかし、その危うい理解の上に成り立っているものが信頼であると石川さんは話します。「相手を信じるとともに、自分自身の決断を信じるしかない」。ほかの誰でもなく、自分の意志でこの道を選び、勇気をもって契約を結んだ石川さんは、そう考えるようになりました。友人や周りの人の意見を聞くことはあっても、結局は全てを自分の責任で決め、「誰にも迷惑をかけない最期」を選んだ石川さん。手続きが進んでいく中で、亡き妻の潔い最期に近付けた気がして、今はすがすがしい気分だといいます。とはいっても石川さんはまだ70歳。こうして準備しておくことで、これから先の人生も、きっと楽しいものになるに違いありません。
シニアサポートデスクは石川さんとの長いおつきあいを願っています。

夫の急死で一人ぼっちになってしまった幸子さんのケース

幸子さんを襲った突然の不幸
閑静な住宅街の一角で独り暮らしをしている75歳の幸子さん(女性・仮名)は、数年前、大きな問題を抱えていました。生活や健康までも脅かす大きな問題です。
幸子さんは、ずっと、小学校の先生という職業に情熱を傾けてきました。もちろん、定年まで仕事を全うし、その後も教員の経験を活かし、子育てや教育に関連するボランティアを続けるなど活動的な生活を送っていたのです。しかし、68歳の時に、衝撃的な現実が幸子さんを襲います。同じ教員であった夫が、心筋梗塞で突然亡くなったのです。子どもに恵まれなかった幸子さん夫婦は、互いに自立しつつも、共に支えあって生きてきた、まさに良き夫婦であったと近所の方は言います。

生きがいをなくし家事が億劫に
このことをきっかけに、幸子さんは、「一人なので食事を作る気がしない」「一人で食べても美味しくない」「家事が億劫になった」と近所の人にこぼすようになったそうです。誰かの役に立つことは、人生の生きがいだとよく言いますが、幸子さんは、夫との死別によって、その生きがいを失くしてしまったのです。それからは、生活が荒んでいきました。自宅の周りは、枯葉や落ち葉が吹き溜まりを作り、どこからか飛んできたペットボトルなどのゴミも混じっています。そのうえに、雑草が生え放題の庭が、自宅を廃屋と化していきます。そして、家の中では、より重大な問題が起きていました。2階建て一戸住宅の1階は台所と居間と和室、そして2階を寝室として使っていましたが、一人になってからは、2階に行くことはなくなり、生活のほとんどを居間で済ませてしまうようになりました。洗濯した衣類は居間に山積み、布団も和室に敷いたまま、居間にあるテーブルの上には、郵便物と新聞紙が置きっぱなし、1階の部屋はこの数年の積み重ねで、幸子さん一人が座れる場所が空いているだけの状態になっていったのです。幸子さんもその風景が当たり前となっていました。

荒んだ生活からの復活
ある日、久しぶりに訪れた親戚の方が、この状態を目の当たりにしたことで、問題は発覚します。幸子さんはその時、寝具や衣類、畳などに寄生するヒゼンダニによる疥癬に感染しており、すぐに病院に連れて行かれました。栄養失調状態でもあったので、しばらく入院による加療が必要でした。その間、部屋と庭、家の周囲はハウスクリーニングの業者に依頼し、大掛かりな清掃をしてもらいました。入院中に、家は元通りの「住める家」に戻ったのです。2週間ぶりに我が家に戻った幸子さん。美しくなった家を見て、やっと元の自分を取り戻しました。またボランティアを復活したり、友だちが出来たりして生きる意欲を取り戻したら、家が荒れることはなくなりました。自宅で暮らすことを強く望んでいる幸子さん。親戚の方も時々訪れ、見守っていくことにしています。

3世帯6人家族、自宅で介護する石田家のケース

寝たきり生活への突入
3世帯6人が暮らす石田家(仮名)の、家族構成は、介護状態である貞夫さん(仮名)とその妻、そして息子夫婦と小中学生の子ども2人です。現在72歳の貞夫さんは、65歳の時に脳梗塞で軽い言語障害となりました。翌年には、脳内出血を起こし、右手足がやや不自由となってしまいました。そのまま、しばらくは安定していたのですが、2年前から身体の機能がずいぶん低下し、その後数ヶ月で完全に寝たきりとなりました。飲み込んだ物が誤って気管に入って肺炎になるということを繰り返し、何度か入院する度に体力が落ち、寝たきりとなってしまったようです。

自宅で最期を迎えさせてあげたい
肺炎を予防するために口から食べることをやめ、現在は、食事はお腹に開けた管から栄養剤を流し入れるのみです。つまり、胃瘻(いろう)です。排泄も自分では知らせる事ができず、おむつにしています。そしてその世話は、70歳になる妻が中心にやっています。息子夫婦は共働きであるため、夜間に手伝うことがある程度です。公的保険での介護サービスとしては、週1回の医師の往診。また、週1回訪問看護ステーションから看護師が2時間訪問看護に来てくれます。訪問介護のヘルパー2名で入浴介助に来てくれるのは、週に1度です。また、月に数日間は、特別養護老人ホームのショートステイ(短期間施設入所)も利用しています。夜間や休日に熱が出たときは、往診に来てくれる病院の当直の医師が電話で応対してくれます。
自分が面倒をみたいという妻の気持ちを尊重し、在宅介護という生活を選んでいる石田家にとっては、日本における介護保険制度が整備され、重度の方の介護も、様々なサービスを用いて実現できるようになっていることは、大きな支えになっています。「自宅で最期を迎えてさせてあげたい」と願う母を、応援する息子家族も大きな支えとなっているのです。

技術や制度の進歩の功罪
脳血管障害が生じると、数年の命といわれたひと昔前と違い、現代では、医学が進歩し、脳卒中の再発はある程度予防できるようになったそうです。また、自分で食べられなくても、胃瘻という形で生命を維持できる時代にもなりました。結局、それは、在宅での介護、特に医療的ケアを必要とする介護が、計り知れないほどの身体的・精神的負担を長年にわたり、家族に背負わせるということでもあるのです。ただその一方で、それらを楽にする方法があるのも現代。介護ベッドや車椅子などの機器はどんどん便利になり、バリアフリーや暑さ寒さ対策のリフォームなどで、快適に介護できる環境を整える方法もたくさんあります。最期まで家で過ごしたいと思うのは人の情。なんとかそれを叶えてあげたいと思うのも家族の情です。現代の医療や介護制度、商品や技術を総動員すれば、最期を自宅で迎えるのもそう難しいことではないのかもしれません。

夫婦2人だけで頑張る勲さん・義美さん夫妻のケース

一人で起き上がれない勲さん
若いときから腰痛に悩まされていた勲さん(75歳・仮名)は、数年前から、朝、自分の力のみで起き上がることはできなくなりました。毎朝、妻が上半身を抱きかかえて起こしています。日中は、長時間ソファに座りテレビを見ている事が多いのですが、トイレに行こうと思ってもすぐに立ち上がる事ができません。肘掛についた両手のみで自分の身体を立ち上がらせるのに、相当な時間がかかるのです。だからその時も、妻の義美さんは、両脇に腕を通して立たせます。義美さんは今のところ元気ですが、年齢は勲さんより1つ上の76歳、「私のほうが先にあかんようになるわ」が口癖です。勲さんは、半年前に介護保険での要介護2の認定をうけて、今はリハビリ専門のデイサービスに週1回通っています。2週間に1回の病院の診察には、タクシーを使って夫婦揃って通っています。買物は、宅配サービスと近くのコンビニで間にあわせています。

子どもには迷惑をかけずに…
自宅は段差も多く、他人が見ると不自由なように思われますが、長年住んでいる家ですから、段差の越え方も、歩きながら支える箇所も、身体が自然に覚えているそうです。ただ、トイレとお風呂には、介護保険の認定時に、手すりをつけてもらいました。勲さん、義美さんには2人の子どもがいますが、2人とも独立して家庭をもち、実家の近くには住んでいません。盆と正月に、孫を連れて帰ってきてくれることは楽しみにしていますが、夫婦とも、子どもたちにはできるだけ迷惑をかけずに暮らしていきたいと望んでいます。そしてその気持ちが、2人を支える原動力になっていると言います。いつまで2人で住み続けることができるかはわかりません。義美さんが先に逝くようなことになれば、勲さん一人では難しいかもしれません。でも、「住みなれた家に住み続ける」ということを生きがいに、これからも支え合っていく覚悟です。

自宅があるのに高齢者住宅に入居した5つのケース

老老介護で認知症のAさん(80歳)
左京区に自宅のあるAさんは奥さん(75歳)と二人暮らし。子どもたちはそれぞれ独立し、大阪と東京に住んでいます。Aさんは3年前認知症と認定され、最近では奥さんのこともわからなくなってきています。夜中に徘徊しはじめるのも時間の問題で、これからますます大変になる介護。奥さんだけで到底つとまるものではありません。日常の生活の面倒も見なければなりませんが、外部に支援を求め、誰かの「見守り」を必要としています。私たちは奥さんからの相談を受け、介護設備の充実した高齢者住宅を探し、身の回りの世話をしてもらうよう手配しました。奥さんは心身共に元気になったと喜んでいらっしゃいます。

独居生活で介護が必要になったBさん(65歳)
ずっと独身を貫いてきたBさん。62歳まで会社勤めをし、ようやく年金が受け取れるようになり、生活も少し落ちついてきました。そんなある日、不幸にも交通事故に遭い、足が不自由になってしまいました。自宅ではなんとか生活できるものの、一人で外出するのは難しく、生活もだんだん荒れてきました。私たちはBさんの妹さんから相談され、高齢者住宅をお勧めしたのです。不自由な部分は施設のスタッフに手伝ってもらい、住宅内に友だちもできて、今では元気に安心して暮らしています。

病院を追い出されるように退院した要介護のCさん(66歳)
45歳の息子と母子二人暮らしだったCさんは、ある日ふとしたはずみで転んでしまい、大腿骨を骨折。若くして寝たきりになってしまいました。病院に入院している間はよかったのですが、「もう治療は終了したので退院です」と言われ困ってしまいました。息子は働き盛り。朝早くから夜遅くまで仕事に追われ、母親の介護は難しい。Cさんも息子に負担をかけたくなかったので、自らの意志でで高齢者住宅に入りました。食事から身の回りの世話までしてもらえて「快適な生活だ」というCさん。時々息子が訪ねてくれるのを楽しみにしています。

老老介護を解決したDさん夫妻(83歳・80歳)
一人娘を嫁がせたDさんご夫婦。娘は遠く沖縄で生活しています。糖尿病をはじめ、さまざまな病気を持つご主人はほぼ寝たきり状態。奥さんも若い頃から腰に不安がありました。ご主人の体を拭いたりトイレに付き添ったり、奥さんも限界でした。娘さんのところに行くにも遠すぎるし、老人ホームはなかなか空室が見つかりません。相談を受けた私たちはすぐに高齢者施設をご紹介しました。楽になった奥さんの明るい笑顔は、ご主人の気持ちも明るくするようで、老老介護のころより数段お元気になられました。

元気だからこそ子の世帯と別居を考えEさん夫妻(65歳)
息子夫婦( 37歳・35歳)とその子どもたちと暮らしていたEさん夫妻。孫と暮らせる楽しさも最初の数年。最近では価値観のずれから、嫁とケンカが絶えません。元々悪い感情は持っていなかったのに、このままでは人間関係が悪くなる一方。孫の教育にも悪いと考えEさん夫妻は、別居を決心。家は息子夫婦に住んでもらい、自分たちは高齢者住宅へ。今は介護の必要はないけれど、ここなら安心して老後が迎えられます。食事サービスを受け、家事が楽になった奥さんはすっかり明るくなりました。

情に厚い父が遺した二棟のマンションと材木店

Aさんの父親がガンで亡くなったのは、今からちょうど2年前、平成21年5月のこと。余命1年という宣告を受けたばかりで、死後のための準備をする時間が、まだもう少しあるはずの時期でした。父親は84歳という高齢でしたが、亡くなる直前まで仕事をしているような、活力に満ちた人でもありました。1人娘であり、その上13年前に既に母親を亡くしていたAさんにとっては、あまりに悲しい出来事です。まさに、父親の死に向けて心の準備をしている最中だったため、現実として受け入れることは難しかったといいます。
悲しみの中、気丈に喪主を務めたAさんは、心身ともに疲れてきっていました。しかし、休んだり、父親との思い出に浸ったりする時間がない理由がありました。Aさんには、父親が遺した材木店をただちに運営していかなければならないという使命があったのです。告別式の次の日にはもう、店の事務所に出勤しなければなりませんでした。
父親で3代目だった材木店は創業一〇〇年を越える老舗で、工務店などを相手に小売りをしていました。30軒ほどの取引先があり、家や寺院の建築が重なると、業務は多忙をきわめます。父親の生前から事務仕事などを手伝っていたAさんでしたが、全てを受け継ぐことになろうとは、まさか思ってもいませんでした。家族同然のような間柄の番頭さんがいたからこそ、店を存続させられました。

しかし父親の死とともにAさんが受け継いだのは、材木店だけではありませんでした。かつて丸太の置き場だった土地を活用して父親が建てた、2棟のマンションがあったのです。材木店の業務は幼少の頃から見てきた上、この道40年のベテランである番頭さんがついているので何とかできました。それに対して「マンション」という遺産は、あまりにも大きなものに感じられました。「不動産」というものは、素人にとってどうしても難しそうに思えますし、入居者まで受け継ぐということが、強いプレッシャーとなって襲ってきたのです。
2棟のマンションのうち片方は1階部分がガレージになっている3階建てで、12の部屋があります。もう一方は5階建てで、部屋は6室。どちらのマンションもワンルームタイプで、築30~35年です。以前は学生の入居者などで埋まっていましたが、築年数が経過するにつれて若者は遠のき、高齢者が増えてきました。また、他人に優しく、取引先や近隣住民にも慕われていた父親は、生活保護を受ける方や、保証人を立てられない方も受け入れていました。入居者が払いやすいように、家賃もぎりぎりのところまで低く設定されていたといいます。入居者と近隣住民の間でトラブルが発生し、やむをえず退去してもらうようなこともありましたが、父親は主義を曲げませんでした。
マンションを受け継ぐにあたり、Aさんが一番苦労し、悩んだのはその点です。代替わりをしたからといって方針を変えるのは難しいでしょうし、マンションが存在している以上、なるべく空室を埋め、入居者全員から適正な家賃収入を得なければいけません。しかし不動産管理の世界は未知の領域であり、オーナーとしての役目を果たせるとも思えませんでした。どんな入居者がいるのかも分からなければ、どの部屋の入居者がどれくらいの家賃を払っているのか(または滞納しているのか)も把握できていなかったのです。不動産、相続、法律、それぞれの知識が必要となってくることも不安の原因でした。
「不動産や相続に関して初心者であっても、丁寧にサポートしてくれる会社はありませんか?」困ったAさんが知り合いの税理士に相談したところ、滋賀に本社のある大生産業という不動産会社を紹介されました。その会社の担当者は、Aさんはもちろんのこと入居者に対しても親身になって相談に乗る人でした。
「何でも言ってください」そのひと言が安心につながったといいます。そんな不動産会社と、夫や家族のサポートによって、結果的にAさんはマンションを受け継ぐことを決意します。
大生産業という新しい管理会社が入り、ようやく全てが機能し始めた時には、父親の死から1年が経っていました。番頭さんの引退を機に、材木店は今春でたたむことにしましたが、マンションのオーナーとしてAさんが活躍するのはこれからです。ずっと張り続けていた気が少し緩んだのか、体の不調を覚えることもありますが、夫や子どもたち、そして父親の想いがいつもAさんを支えています。仕事が好きで、仲間や家族に好かれ、情に厚かった父親の遺産を、Aさんはその想いごと受け継いだのです。

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